2011年10月6日木曜日

祭り、祈り、感謝、意味、価値

常吉では今週末8、9が秋祭りです。

自分も神輿担ぎに参加します。がっさ重いいうことです。筋肉痛必至です。



ここでは地域の多くの人が太刀振りや神輿担ぎに参加し、どんどん少なくなっているものの、小学生から高校生までの子どもたちが練習しています。
その中で、一人とても熱心に太刀振りを練習している高校生がいて、ぜひ一度話をしてみたいと思っていたのですが、残念なことに今日見に行った時には練習が終わっていてお預けになってしまいました。


まことに恥ずかしいことなんですが、自分がその年の時には絶対こんな地域行事とかやりたくなかっただろうな、めんどくさいと思っていました。彼らはどんな思いで祭りに参加しているのか、気になるところです。かつての自分のように、めんどくさいなと思っているのだろうか、それとも毎年やってるから特に何も感じないのか、地域のつながりが深まるからと思ってやっているのか。


今くらいの年になって、ようやく地域行事の大切さに気づき始めたんですが、その理由は、もちろん地域住民同士のつながりを大事にする上で重要ということもあるのですが、自分はそれに加えて、祭りの持つ意味、つまりその土地の神様に対してどのようなことを願い、あるいは感謝するのか、踊りにはどんな意味があるのか、そして、それが発生した自然環境的な背景はどんなものがあるのだろうか…、そんなストーリーに興味があったりします。
こういう風に思うようになったのは、やはり大学でランドスケープ・エコロジーを入門程度にも学んだことが大きなバックグラウンドであるように感じます。

ランドスケープを考える上で、ヒトと自然環境の相互作用という要素は避けては通れない事象です。ヒトの土地利用がどのように生物に影響を及ぼすのか、人間活動と生物多様性保全(?)の最適解とは、を探求するのがランドスケープ・エコロジーの主要な観点です。
ヒトと自然の相互作用によって形成される景観(=ランドスケープ)が文化的景観であり、それは農業や林業、宗教や祭事、など、「文化」とひとくくりにされる人間活動により攪乱され、またスケールを変えると平衡状態にある景観なのです。

文化的景観は、そのような相互作用の結果が空間上にパターンとして表出したもので、そこには必ず歴史という時間軸を含んだプロセスが、因果のあるストーリーが存在します。


どんな自然環境が人間の活動に影響を及ぼし、それによってどんな文化が生まれ、それがどういう形で自然環境に影響を及ぼし、結果どういう状態で平衡状態(文化的景観)に落ち着くのだろう。
常吉だけでなく、隣の奥大野とルーツは同じなのだろうか、同じとしたらなぜ地域で分かれたのか、違うならばどういうところが違うのか。


百貨店に来るおばあちゃんに聞いても祭りの言い伝えもよく分からないという。誰か知っている人おらんかなぁ。


地図で見たら、常吉は丹後半島の竹野川流域の源流部マピオン。3Dで見てもらったら分かりやすい)だから、そこには山水が流れます。山水には生活排水が混じらないから、栄養塩が平野部より少なめだが、「きれいな」水で育つためおいしいとされます(きれいとか汚いとかは人間から見ての表現なのであえて「」で表現しています)。やはりそういう廃水が流れないところで取られる農作物には清らかなイメージがありますね。
そういうお米が取れることに踊りや太刀振りと言った行動で感謝を表すのだろうか、それともそういう環境でこれから取れるであろう農作物が豊作であることを願うものなのか、その辺はおじいさんおばあさんに聞いていかないと分からないですねっていうお話です。



経験でしか分からない事象がある。そんな文化として続く活動が、生態学的に見ればこういう重要な意味があって、っていう科学的な裏付けを与える仕事もかっこいい。それは地域の人にとっても新たに気づきでもある。
それは「お金にならない」価値。

お祭りなんて、経済的に見たらお寿司やオードブルの注文がいっぱい来てちょっと儲かるくらいで、かったるい、冗長なもんだと思うのが都会人のほとんどだと思います(偏見)。経済的合理性を考えるとそうなってしまいます。
しかし、長年その土地に根ざした文化に、これからの社会を考えるヒントが隠れているのではないかと思います。
経済は大変重要な要素なんですが、それが全てなんかじゃない。自然資本を無限にある所得と考え、経済性を優先した活動が持続不可能なものなんていうのは、おそらく皆さん頭じゃ分かっているけれど、じゃあどうすればいいんだ、貨幣経済じゃ測れないものの価値をどう考えればいいんだ、という問題は本当に難しいと思います。地域で暮らしていると、そんなことを常々考えてしまいます。

すばらしい価値は沢山ある。しかしそれがお金になるのか、とここの人によく言われます。
そうなんです。今はその通りなんです。
でもお金にならないからそこで離れるのはもったいないと思う。
具体的にどうすればいいのか、悩みながらも、こうやって悩める環境にいれるのは丹後に来たからで、来てよかったとつくづく思える毎日です。



全然具体的な話じゃなくてすいませんね。



で、最後にまとめると、文化を知り地域を知ると同時に、その背景となる自然環境に目を向け、そのプロセスをふっと考えてみる、そんな生活も素敵じゃないですか?そうした文化、知恵の価値を見える化して、必ずしもお金・事業という形ではなくとも、地域に還元するのが僕(たち)のミッションですよね、っていうことを言いたい訳です。

駄文!笑


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常吉村営百貨店 住みたい「村」、住み続けたい「村」
http://tsuneyoshi.tango.gr.jp/

2011年10月2日日曜日

シイタケで山を保つ


コスモスがきれいに咲いています。10月になってしまいましたが、9月記事です。

初記事にして、これよりいいテーマはなかなか見つからないんじゃないかと思ってたりします。
書くスキルはほとんどないので、もう少し書くのが巧くなってから書きたいところなのですが、9月で最も感動したお話の1つなので、これはぜひ記事にしたいと思い、書くことにします。



テーマは、「原木シイタケ栽培に見る、洗練されたライフスタイル」とでもしておきます。
「洗練された」とは、「え、なに?シイタケ栽培して贅沢な暮らしができるの?」じゃありませんよもちろん。ここでいう「洗練された」とは、無駄のない、それでいて自然の恵みを最大限活かしたライフスタイル。すなわち、ヒトが生態系のサイクルになじんだ営みを、原木シイタケ栽培に見ることができました。

ちなみに、原木栽培は、こちらを見て頂ければだいたい分かるかと思います。



お話ししてくださったのは、常吉の「何でも屋」こと、今田さん。彼は農家もしながら、自伐で森から木を切り出している方です。木はもっぱらシイタケ栽培用のほだ木です。

常吉で木を切っているのは今田さんくらいです。彼が現存する常吉最後の里山林業家かもしれません。



———山からコナラの木を切ってくる。
木を1mくらいに切って、それを300〜400本切ってくる。菌打ちして1年半くらい日光のあたらないところに寝かしておくんや。そうすると樹皮と材の間に菌の層が広がって、綺麗なオレンジ色になる。
打ったところから生えると思っている人が多いが、それは違う。菌の層が広がって、一番出やすそうなところをシイタケは選んどる。菌打ちっていうのは、菌が樹皮と材の間にまんべんなく広がるような間隔で打つんや。


1年半くらい経ったものが一番取れやすい。年数が経つとだんだん菌の元気もなくなってくるんやけれど。
少し生えてくると、1週間ごとにトラック1台分くらいずつ山からおろしてきて、水に1日つける。そうすると上げた後よく生えてくる。1週間ごとに小分けにして運んでくるというのがミソで、そうすることでいっぺんに生えてこずに、順番に生えてくる。そうすると、安定して出荷して収入を得ることができるし、ある時期に大量に作って余ることも防ぐことができる。


ほだ木が組まれ、ミョウガが生い茂る今田さん家の裏
3年〜5年もしてくると、必ずそこにカブトムシがやってくる。
今木を崩したら絶対出てくるね。ほんで、そういうところでは腐葉土ができて勝手にいい土ができる。
またミョウガも生えてくるのだが、腐葉土だからよく育ってくれる。ミョウガはシカにめちゃくちゃ食べられて、今自然に生えとるのがほとんどない。けど、ここだと木が組まれていることでシカの食害からミョウガを守ることもできる。シカははみ出したミョウガは食べられるけれど、中のものは食べることができない。
だから百貨店に俺だけミョウガを持って来れる(笑)



今田さん家の裏の柿の木には熊の爪痕が残る
山の木を切るということは、野生動物との距離を保つこと。
木を切ることで、冬には雪が林床に積もる。餌も減る。すると野生動物は自然淘汰にあって勝手に数を減らす。餌もなく、冬の寒さに耐えられないから。それでほどよい数になる。
今人の手が入らなくなったところは、木が沢山生えて、餌は比較的豊富にあるし、林床は雪が入ってこないから生き延びることができる。
やっぱりそういう状態だと、里に入って来れる獣も増えるし、今そういう状態になっている。



人の土地の樹を切らしてくれと頼んだら、たいてい快くオッケーしてくれる。やっぱりみんな自分の山の整備をしてほしいと思っているけど、人手がないんや。
昔は山に区の山、町の山があった。共有地として、誰が木を切ってもよかった。


今年は公民館活動として、数十年ぶりに木を切りましょうと言ったわ。
15人くらいで行ったものの、チェーンソーを使える人が5人もいない。他は手ノコで切るという…。そういう技術を持っている人が少なくなっている。また、ホームセンターでチェーンソーを買ってくる人もいる。それははじめのうちは良く切れるが、釘かなにかにあたって刃が欠けるととたんに切れなくなる。そういうときは刃を研いでまた使えるようにするんだが、多くの人はその研ぎ方を知らない。そして、「このくらいが一番よく切れるかな」っていう感覚を知っている人も少ない。そういう感覚は長年の経験が必要やからね。

俺がいなくなると、木を切れる人がいなくなるなぁ。———



と、シイタケ栽培のプロセスから、その裏に潜む山の手入れ、地域活動のことも話してくださった今田さん。

シイタケを介して、土が育ち、植物が育ち、生き物が育ち、山が育つ。その恵みのおすそ分けを頂き、自分たちの生活の糧にする。百貨店に収穫物を売りにいき、それが売れる。売れると、それは喜びとなり、喜びは生きがいへと変わり、もっと作りたいと精を出す。
そしてまた木を切りにいく…。

こういう話は、森林関係ではよくある話です。ただ、そういう話から読み取れる、自然とヒトのプロセス、ランドスケープスケールを変えて見ることはもっと一般的に知られてほしいし、常吉にもこういう視点が今後浸透していけばいいと思います。





こういう視点で見ると、常吉百貨店も生態系の流れに乗っているように感じられないでしょうか。百貨店は地域に生きがいを生み出す場所。それが山を(ヒトのために)守るインセンティブになる可能性がここに垣間見れた気がします。


常吉の「動的平衡」モデルを今想像しました。
動的平衡とは、生態学で使われる時には、ミクロに見れば常に動いているが、マクロに見るとそれらは全体として平衡を保っているという考えのことです。

例えば、山などで考えて頂けると分かるのですが、ミクロに見ると、そこでは植物の芽が出ていたり、あるいは老木が倒れたり、と絶えず環境は変わっている訳です。しかし、よりマクロに景観単位で見てみると、そのような場所は、位置を変えつつも全体としては木が生え、ギャップ(木が倒れるなどして森にできたパッチ上空間)があり、実生が生える状態というのは定常的に存在するわけです。


常吉百貨店ははまさにそのモデルを目指しているのではないでしょうか。
ミクロに見てみると、そこでは大木さんをはじめとする多くの方が百貨店のためにアクションを起こし、それらは時に成功し、時に失敗もして絶えず環境は変わっていきます。
しかし、もうスケール変えて百貨店を見れば、それらがあることで持続可能な状態を作り出していると言えるのではないかと、ふと考えました。


そんな秋の夜長。今日から急に寒くなってきて、なかなか厳しゅうございます。
まだまだ寒くなるかと思うと閉口です。

では。次回はもう少し巧く書けたらなと思います。


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