2011年12月30日金曜日

生物多様性の保全について

久々の投稿です。タイトルは壮大ですがそんな大したことはありません。

実家に帰って、今日は腰を据えて研究計画に取り組もうとしたものの、もう少し根源的に考えてみたいという衝動があったので、これを書いてみました。
かなり無理矢理感があるので、うーん、といった感じですが。。

俺が思うのは結局生物多様性保全は人間のエゴなんだろうなと思います。

なぜ生物多様性を保全するのか、それについて少し考えてみました。色々矛盾はあると思いますし、まぁ完全なものはできないと分かっています。
批判が入って考えを深めたいな。

以下読みづらいですがどぞー。
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生物多様性、特に希少種について、「なぜ保全をするのか」ということに対して、(現時点での)何らかの答えがあるべきなのだろうか。

里山の生物多様性保全の目的は明確で、それが人間の福利に直接的に繋がるからであるけれど(というより、そもそも里山においては、保全は人間の福利を求めた時の結果でしかない、というのが正しいと思っている)、直接的に人間の福利とは関係ない希少種に対して客観的な答えを見いだすことに意味はあるのだろうか。「冗長性仮説」や「リベット仮説」もあり、確かにそうなのだろうけれど、いまいち腑に落ちない。
そのような希少種を保全する目的は、よくあるのが「その生物が(あるいは、もっと広く、植物や動物が)好きだから」という、ある意味感情的なものでもある。それ以外のものはあるのだろうか。ちょっと考察。2つ視点を持ってみた。(あとで結局1つに集約されます笑)


1つの視点は、やっぱりヒトのため、という視点。
希少種が希少であるゆえんは、その植物自体が乱獲等により数を減らしている場合や、そもそもの生息環境自体が劣化・減少している場合がある。前者はその持続可能性が(一部の)ヒトの満足を満たすという点が保全の理由になる。後者の場合、希少種は失われていく環境を指標するものであるが、そう考えるとその環境が長期的に見てもヒトにとって必要かどうか(何を持って必要とするかは議論しないといけない)が大きな焦点になるのではないか。


もう1つの視点は「進化」の視点かと。
現在の生物多様性はもとは1つの生命から何十億年というタイムスケールの中での自然環境と生命の相互作用(適応と淘汰)の結果であり、その歴史そのものに価値がある、という考え方。(参考:「保全生態学入門」より)
これは一見ヒトが生きるためとは関係がないように見えるけれど、しかしその価値を評価するのもヒトであるし、なぜそこに価値があるという判断を下すのか、ということについては、ヒトが理性(=感覚的能力に対して、概念的に思考する能力。)を持つ生物であるからに他ならない。

ヒトは生命の維持と子孫を残すという意味での「生きる」こと以上のものを求める存在だと思う。これが、ことをややこしくしている。笑
ヒトにとって今や「生きる」とは「生命の維持+子孫を残す」と「+α」が必要で、それは趣味であったり、自己実現(何かに対するやりがい?)のための活動であったり、芸術的なものを見て感動したりすることであったりするけれど、その+αの部分が理性活動だと思う。その中に「進化」という現象に対して抱く重みのようなものを感じることが、そのような判断をもたらすのではないか。人為的活動によって生物多様性が失われることは、その進化の歴史を切ってしまうことに繋がる。

自然のなかでの環境の変化により淘汰されることと、人間活動により絶滅に追いやられることとは、「(広い意味での)環境変化に適応できなかったものは絶滅する」、逆に言えば「適応できたものは生き残る」という点では同じかもしれないが、その2つの明確な違いは「理性によって防げるか防げないか」だと思う。

進化の歴史をヒトがなくしてしまうということに対して疑問や責任を抱くということは、理性が働くことであり、それは理性全体の中での一部でしかないのだけれど、保全をすることはその理性を満たすこと、つまり先述の「+α」を満たすことであるのではないか。


ヒトが生きるために環境を改変する生物である以上、その環境での種の絶滅があって当然といえば当然なのだが、今その改変がヒトという種の保全への危機と、歴史を感じさせる理性を働かせている。

こうやって考えを書いていくと、結局、なぜ生物多様性を保全するのか、という問いは『ヒトがヒトとして「生きて」いくため』に集約されるのではないか。

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やっぱエゴですねー笑 でもそれでいいんじゃない?だってヒトですもん。
ただ、「生きる」ためには節度を守りましょうよ、という話なんでしょうね。

なーんて考えてました。ややこしや。
良いお年を—。

p.s.研修地見学会のレポートは近日中にアップします。