2011年11月11日金曜日

京丹後働き隊全員集合第2弾、奥大野研修地見学会。
去る11月8日、奥大野にて、「自然耕房あおき」の青木さんのお話を聞くことと、農地で農作業体験、そして晩には、青木さんの生い立ち、地域のこと、そして京丹後の各地域の働き隊受け入れ先の方々をはじめとして、様々な方々を集めての議論(カタリバ)を行った。

いろんな話を聞くことができて、全部書くと分量がえらいことになるので、各コーナーで一番印象に残ったことを、ひと言ふた言書いて、あとはタイトルのことを書きます。

【青木さんの話@小さな食卓】
リーダーとは…全員の意見を聞き出す。それを集約する。方向を決める。ケツは全部ふく。これができる人は相当かっこいい。

【農作業体験、土を見る@農場】
山積みにされた木材チップ。花崗岩質の地質からは想像もできない豊かな土を作り出すもと。土は真っ黒だった。

小さな食卓でのシェフの方から聞いた青木さんのことと、土にこだわる姿を見て、自分の中の青木さんのイメージは「職人」になった。

【イケメンしんちゃんのカタリバ】
今までの青木さんの人生と地域のこと。地域での一生の付き合いだからこそ衝突を避ける(ガス抜きとしての悪口)田舎の本質。常吉でも感じている歯痒さと、半年じゃ本質的な問題の解決は相当困難そうだということを考えた。ただ、きっかけは与えられるような気はする。
青木さんがここまでやってこられる間に、相当な苦労があり、それに耐えるだけの並ならぬ忍耐力の断片を知ることができた。

【親】
ここから研修内で一番印象に残ったこと。
各地域の方々が集まって、議論の場。各働き隊が自己紹介をした。



しばらくして、鋭い指摘が出た。
「自分がどんな存在なのかを説明する時に、自分の人間には親の生き様が少なからず影響しているはずなのに、君たちの説明には親の存在が抜けている。」



自分は、それに対してすぐに答えが出てこなかった。

自分の人間形成に親は絶対関わっている、それは間違いないのだけれど、具体的にどこのどんな部分に親の存在が影響したのか、あまり考えたことはなかった。




自分にとっての親とは?




よく人は「親は自分を生んでくれた。私は親のことを尊敬している」という。
自分を産み、ここまで育ててくれた、応援してくれたかけがえのない存在で、感謝している。ただ、それ以上のものを感じていない、といったら語弊があるかもしれないが、はて、自分は親のことを尊敬しているかといったら、正直そこまでの感覚はないのが実情である。

尊敬という感覚の欠如。なぜ欠如しているのか(そもそも欠如していたらいけないのかという話もあるけれど)。
それは親のことを知らないから、というのが自分の中の答えだった。
親の生き様を見て、初めて尊敬の念が出てくるのだろうか。
親の生き様…、そんなの親から聞いたことない。ただ、明確にではないが感じてはいたはずで、いままでそれを、意識して思い返したりするようなことをしてこなかった。

そんなことを、これを書くまで考えていた。



生い立ちをさかのぼってみた。下書きの段階では恥ずかしすぎて、あるいはダメ人間過ぎて人に見せられないこともいろいろ書いた。そして、そこに表れる親の存在を思い返してみた。


そうして自分の人生と親の関係を見てみると、ほんと好きなようにやらせてくれているなと感じる。例えば、大学でラクロス部に入って、下宿したいと言った時(当時自宅から通っていて、1時間半の通学時間。練習は朝7時からなので、通うのは相当負担だった。)も猛反対されたけれど、いざやりだすと本当に助けてくれたし、やっぱり自分がやるって決めたことに対して応援してくれている。これだけじゃなく、働き隊で丹後で活動することに対しても応援してもらっている。だから、これからどんな人生になろうとも、味方であり続けてくれる存在は親しかいないのだろう。
ただ、こういう風に自分を育ててくれた、親がどんな人生(深い質の部分)を歩んできたのか、恥ずかしいことに、あまり知らない。


親が自分をどんな思いで育てようとしたのか、そうなった親の人生の背景は何なのか。


そういった意味で、自分は親のこと全然知らないのかも、と気づいた。
そこを知って、理解して初めて、自分に取っての親の存在がどんなものか、少しは分かるような気がする。



実家に帰ったら、丹後のうまい酒とうまい肴をあてに、親と話してみたいと思った。


2011年11月9日水曜日

田舎に入ってからの考えの変化

今回は常吉の話ではありません。

ここ丹後に来て、見て感じて、多くの人に出会って話を聞いて、少しずつ考えが変わってきたことを10月の記事にしたいと思います。これは10月26〜27日にあった梅本農場での働き隊研修のレポートとして梅本さんにも読んで頂きます。(遅い(汗))


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今休学中(とはいっても研究はぽつぽつでも進めていかにゃならん)で、大学では生物多様性保全についてのとある研究をしようと考えている。自分は生き物、特に人里に近い環境の生き物が好きで、農学部の森林科学科に入った。学年が進むにつれて興味は生物多様性、生態学に向かい、そこでは「保全」というものが目的になっている。

「〜の保全を目的としてこの研究を行う。」
「里山環境の保全のためには、かくかくしかじかの管理が必要である。」


働き隊として田舎に入ると、「はて、保全とかってそんな声高に叫ぶものなのか?保全が目的?」と、少し疑問に感じたりするようになった。
もちろん里山環境の危機は現場にいる以上すごく感じているし、なんとかしたいと思う。

ただ、何かが違う。



9月のエントリでは原木シイタケの話で、生業が生態系に組み込まれていることへの感動を書きました。



10月は、同じ丹後で活動されている働き隊の方の受け入れ先である、梅本農場で梅本さんのお話を聞く機会がありました。



そのお話は印象的でした。「食の安全」へのこだわりもそうだったんですが、自分としてはむしろ、農業の本来あるべき姿を見、それを超えてヒトという種の本来のあり方に挑戦されている(と個人的に解釈しました)姿に感銘を受けたのと同時に、さっきの疑問も自分の中で1つの結論にたどり着いたように感じました。


キーワードは「いのち」「巡る」でした。


今までこの言葉を何度となく聞いてきました。頭では分かっていたけれども、実感ではない。教科書や授業で炭素や窒素の循環も少し勉強しました。そうです、確かにそうです。けれど実感が伴わない。


梅本さんとこで1日体験作業しました。自然農法に挑戦されている梅本さんは山の落ち葉と土壌を集めたりもしています。先日はそれを体験してきました。内容は簡単に書きます。





山(落葉広葉樹林)から落ち葉と土壌を集め、それを畑に撒いて土を作る作業。数年かけて土から作るのです。
そのあとは、その作業の意味とともに"いのちをいただく""いのちの循環"のお話と、その考えに至った背景、「オーガニックスタンダード」への思いを聞きました。
そして、前日に自分たちの手で奪った鴨の命をいただきました。



1日作業を体験しただけで全てを理解できる訳はないのですが、やはり百聞は一見にしかず。作業を通じて感じたことと人の話を直に聞くことで実感というものもでてくるようです。



そして、自分の中のさっきのもやもやは整理され、結論はこうなりました。ここからは、ですます調でなくなります(ですます、をつけるのがめんどくさくなりました)。

やっぱ保全は結果であって目的じゃないなぁ、と思った。
結局、目的はヒトという一生物が持続可能であるためなんだと。
「山が荒れているから手入れをして保全しないといけない。」…「荒れている」という価値判断は人間のものであり、その自然自身は、ただ全体のプロセスの1断片でしかないのだ。
結局、ヒトが持続可能であるために、どういう環境を望んでいるのか。それなんだと思う。
ヒトが生態系の頂点だから保全する責務があるとか、そんなのではなく、シンプルに一生物種として存続したいから。それでいいじゃないか、ヒトだもの。
じゃあそのためには何を大切にしなきゃいけないのか。
というところで、「いのち」「巡る」という言葉が意味を持ってくるのだと。個々の生物や無機的な自然環境を大切にするのも大事なんでしょうが、重要なのはその「系」、即ち繋がりであって、それを観念的に最も分かりやすくつなげる存在が「いのち」というワードだった。
そしてそれをもっとも身近に感じられる行為が、「食」なのだ。"いのちの循環"や"いのちをいただく"といった話で、「系」を、自分を支える生態系のスケールを、感じてもらう。
そしてこれからの時代、ヒトの持続可能性も危うい状況で、そういった教育が必要になってくるんだと。
生物多様性なんて話も本質はいのちの繋がりなんだと。自分という個を支える生物と、その生物を支える生物、生態系…

で、その話が観念論で終わらないためにも、(保全)生態学っていう科学がある。ただ、研究である以上、人間の持続可能性という目的は大きすぎるし、そもそも社会の意思決定の基礎をになう分野である以上、本来の結果である「保全」は直接目的になる。


こうやって考えていたら、自分は職業での研究者にはなれないだろうなと思った。笑
もともとあまりなろうとも考えていなかったけれど、こういう考えになった以上、自分は実践者になりたいのかもしれない。


そして、「自然農法」に対して個人的に感じたことは、安全とか安心とか、そういうものではなく、生態系に組み込まれた人間の1つの営みなのだと解釈した。安全、安心もまた結果であり、副次的な恩恵なんじゃないか。

もちろん、安全、安心な食べ物を求める社会のニーズがあって、それに応えうる食を生産する手段のひとつが自然農法であるし、とてもすばらしいことではあるが、やっぱり自分が大事にしたいところは、いのちの循環の中で生きる暮らし方、なのであった。

そんな暮らしの中で、大切なひとみんなに「おいしいね」とか、「あんたの作った野菜は安心できる」とか言ってもらえたら、とっても嬉しいのだろうな、と思った。






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ここまでが研修直後に思ったレポート的なものです。

ここからは余談で、ですます調に戻ります。

「少しでも多くの人に、安全・安心な食べ物を提供したい」と、ミッションを持って社会に強くメッセージを発信する梅本さん。
「生態系のサイクルに組み込まれた中での暮らしをしたい」という自分。

見据えている対象が、社会で困っている多くの人と、自分自身とその周りの人。

うーむ、幸せにしたい対象の規模が違いますね。
あ、自分は別に周りの人がどうなってもいいと思っている訳ではなくて、ただ、自分自身とその周りが幸せであることがはじめの一歩なんじゃないかと思っているんです。


いつかそういう風に、幸せにしたいと強く願う対象が人生とともに広がっていくものなんでしょうか??