自然と人との接点のあり方を実務の立場からこつこつと考えていきます。 タイトルは大学院時にとてもお世話になった集落名をもじったもの。どんなことも、常に長い目で見て「よし」ととらえられるように。
2012年5月9日水曜日
「クマ牧場」問題から、動物園水族館を消費することの意味を考える
行き場ないクマ29頭…「牧場」すべて断られる
読売オンラインの記事。
あぁ、やっぱりそうなるのね。「かわいそう」だけではだめなんだよな。
こういう自分もかやの外からコメントしている訳で、無責任である。
こういう問題は人間のエゴ以外の何物でもないのだが、
ただ、批判だけをするのは簡単なことで、この事故を通じて、野生生物を飼育することと、それを自分たち(全ての人ではないが)が消費して生活していることの意味を考えなきゃ。
野生生物は与えられた環境で淡々と生きるだけ。来客はそれを商品として消費し、施設はそのお金で成り立っている。一方で、外に出てしまえば飼育員でも襲うし野生は失われた訳では全くない。
人間の管理の甘さで人間も死ぬし襲ったクマも殺される。
痛ましい事故としてメディアに取り上げられ、「クマは凶暴だ」「殺されたクマはかわいそう」とされる。
そこで来客は減る。経営が逼迫する。お金がない。引き取り手もお金がなかったり施設がなかったりで、いない。
で、安楽死させようとも考えている。
もうエゴでしかない。
しかし、それでも「牧場」や、もう少し拡げて動物園・水族館がある意味ってなんだろう?と考えた時に、見えてくるものがあると自分は思う。
自分たちが何を消費しているのか考えると、それは動物の行動や生態の断片から得られる感動を消費している訳で、シンプルに、素敵と思えたら、そこからもう少し想像力を働かせ、その生息地の状況はどうなっているのかとかを知る「きっかけ」を与えてくれることが1つの意味としてあるんじゃないかな。
ま、この意見は受け売りでもあるんだけどね。でもホントにそう思うから自分の意見でもある。
消費するならいろんなものを得れた方が楽しいよね、っていう話。
たまたま見つけた記事があったので、紹介。
飼育員全員がこんな風に考えているとは思わないけど、こんな風に使命感を持っておられるこの方はすごい。
飼育員さんが伝えようとしていることと、自分たち消費者も知ることができるいい記事です。
就職ジャーナル【仕事とは? 坂東 元 氏】
2012年5月4日金曜日
いわさきちひろ展
兵庫県立美術館でやってるいわさきちひろ展に行ってきた。
こういう美術展系はあんま行ったことなかったけど、時間ができたのでいくことに。
彼女の作品はおそらくこれまでに何度も見たことあったけど、それが「いわさきちひろ」が描いた、なんてことは最近まで知らなかった、というくらいの素人っぷりだ俺は。
人の名前とか作品の名前はなかなか覚えられず、作品が"だいたい"どんなだったかの方が記憶に残る(といっても、ふわっとだけ覚えている感じ)ので、こういう話題に疎い。
作品を見ていって、安らぐ、というのがまず一言目に出てくる。
技術とかについても全く無知なんで分からないけれど、水彩画でにじませたり、隣の色と少し混ざって緒と違う色になってたり、はたまた混ざらずに色が重なり合ったりしてた。
薄くてふわっとした感じに安心感があって、平和な気分になる。
やっぱり子どもの特徴をすごくうまく描いている。幼児の腕とかのふっくら感とかむちむち感、小学生くらいの子の華奢な感じとか、繊細なような柔らかいような。
あー、こういう仕草してるしてる。って、リアルな感じが頭の中でフワーって出てきた。
どれもいいなと思った中、何点か気に入った作品もあって、「ストーブとふたりの子ども」(参考:ここの37番)はその1つだけど、灯油の(?)ストーブの周りに男の子と女の子がいて、男の子は本を、女の子は猫(犬だったけな?)を抱いてる絵。
そのストーブ周りの赤色と子どもがゴロゴロして本読んでる画に何とも言えない暖かみを感じて、気に入った訳なんだが、気に入った作品には共通点があるなと思った。
それは、どの作品も脈略無く突然好きになるとかそういうのじゃなくて、これまでの自分の経験の中から何かしらの記憶を想起させるものがあって、この絵も、小さい頃ストーブの周りでゴロゴロして、それがとても心地よかったという、何のことはない記憶が出てきて、それで親近感が湧いたりするもんなんだな。
ふらっと美術館ってのも、いいもんだな。
2012年4月7日土曜日
もっとざっくばらんに生きよう
院に進学して、休学して、今。
いろんな世の中の課題とか、矛盾とか、見えてきたものは多い。
「もっと自己成長を。問題解決を。」
そんなことだけ見てると頭ガチガチになって、今まで好きだった、身近に転がってる些細な楽しさとか見失いがち。
俺はもっとしょうもないことが好きだ。
バラエティ番組も好きだし、漫画も好きだし、いたずらも好きだし、この年になってブランコ乗るのも好きだし、虫採りも好きだし、時間の無駄とも思われるようなしょうもない遊びも好きだ。
もっとざっくばらんに生きよっと。
ときどきまじめくらいがいいよな。
いろんな世の中の課題とか、矛盾とか、見えてきたものは多い。
「もっと自己成長を。問題解決を。」
そんなことだけ見てると頭ガチガチになって、今まで好きだった、身近に転がってる些細な楽しさとか見失いがち。
俺はもっとしょうもないことが好きだ。
バラエティ番組も好きだし、漫画も好きだし、いたずらも好きだし、この年になってブランコ乗るのも好きだし、虫採りも好きだし、時間の無駄とも思われるようなしょうもない遊びも好きだ。
もっとざっくばらんに生きよっと。
ときどきまじめくらいがいいよな。
2012年3月29日木曜日
選択するために
24日のシンポジウム『世界サミット「リオ+20」〜私たちが、望む未来とは〜』に行ってきました。
25日は滋賀でマザーレイクフォーラムにも行ってきました。
24はグローバルに視野を広げる。25はローカルで動くためにどうするか考える。そんな感じに位置づけて参加しました。
そうそう。リオと言えば、あれですね。セヴァン・スズキのスピーチ
1992年に12歳の少女がこんなことを世界に対して言った訳ですよ。
20年経ったんですけど、自分はその時幼児でしたけれど、世界はいい方向に向かっているでしょうか?
きっと、多くの人はそうは思えていないのではないのでしょうか。
でも、僕は、いい方向に向かっていってると思います。
なぜなら、自分が小さいことながら、少しづつ行動していっているからです。量は少ないですが。
確かに、世の中は悲しいことと憤りたくなることもたくさんありますが、それは世の中をもっと良くしていきたいと思っているからなんですよね。
昨日も、岡山に行って切り捨て間伐材をひたすら搬出するお手伝いに行ってきました。
とまぁ、こんな状態の森をなんとかしちゃるってことで、美作市地域おこし協力隊の人らは気張っとる訳で、そんなふうに世の中を良くしていこうと前線で動きまくってる人らは輝いていますね。
まだ直接お会いしたことは無いですが、トビムシという会社の古川大輔さんという方は、自身のブログでこんな風におっしゃっています。
…ありますねぇ。でも、その程度はどれくらいあるか?
行動の情熱はそうとして、動くためにはどうすれば良いか。
24日のワールドカフェでの気づきがありました。
行動のプロセスはこんな感じです。
知る→考える→選択する→行動する→評価する→考える→…
選択・行動できるための、知識と考える力が、これから必須ですね。
日々、勉強と小さな行動の繰り返し、ですね。
勉強中の本:武器としての決断思考
25日は滋賀でマザーレイクフォーラムにも行ってきました。
24はグローバルに視野を広げる。25はローカルで動くためにどうするか考える。そんな感じに位置づけて参加しました。
そうそう。リオと言えば、あれですね。セヴァン・スズキのスピーチ
20年経ったんですけど、自分はその時幼児でしたけれど、世界はいい方向に向かっているでしょうか?
きっと、多くの人はそうは思えていないのではないのでしょうか。
でも、僕は、いい方向に向かっていってると思います。
なぜなら、自分が小さいことながら、少しづつ行動していっているからです。量は少ないですが。
確かに、世の中は悲しいことと憤りたくなることもたくさんありますが、それは世の中をもっと良くしていきたいと思っているからなんですよね。
昨日も、岡山に行って切り捨て間伐材をひたすら搬出するお手伝いに行ってきました。
こんなのが大量ですね。林野庁が二酸化炭素吸収機能として間伐を推進しますといっても、それは間伐材を搬出して資源化することが必要条件であって、これじゃ微妙ですよね。。
参考:京都議定書の達成に向けて
「保安林」という表記がシュールです。こんな状態では水源涵養機能も十分とは言えないだろうなと想像します。とまぁ、こんな状態の森をなんとかしちゃるってことで、美作市地域おこし協力隊の人らは気張っとる訳で、そんなふうに世の中を良くしていこうと前線で動きまくってる人らは輝いていますね。
まだ直接お会いしたことは無いですが、トビムシという会社の古川大輔さんという方は、自身のブログでこんな風におっしゃっています。
世の中を良くしたいがために動く、という情熱の持続性は「好き」と「憤り」でできる、なるほどです。今自分に「好き」はあるか?「憤り」はあるか?
情熱とは持続性ある行動力とみれば、それは「好き」×「憤り」である。
では「好き」や「憤り」に出会うにはどうしたらよいか、それが原体験
である。自分自身でしか経験していないもの。好きから始まっても、憤りから始まってもいずれにしろ療法に出会わなければ、情熱は続かないものである。情熱(持続的行動力)↑好き × 憤り↓↑原体験
…ありますねぇ。でも、その程度はどれくらいあるか?
行動の情熱はそうとして、動くためにはどうすれば良いか。
24日のワールドカフェでの気づきがありました。
行動のプロセスはこんな感じです。
知る→考える→選択する→行動する→評価する→考える→…
選択・行動できるための、知識と考える力が、これから必須ですね。
日々、勉強と小さな行動の繰り返し、ですね。
勉強中の本:武器としての決断思考
2012年3月16日金曜日
2012年3月14日水曜日
「パッシプデザイン」という考え方
今日は友人のお誘いを受けて、大阪、天六の豊崎長屋の見学と、上新庄の山本博工務店さんでOMソーラーのお話を聞きにいってきました。
①豊崎長屋、山本博工務店
豊崎長屋は、大阪市内に残る、大正時代の長屋4棟15戸に、耐震補強と住戸改修を施して再生したプロジェクト。戦災や震災を免れてきた長屋を、単に文化的価値から「保全する」だけではなく、さらに将来へと「受け継がれていく」ことを旨に計画を練ったものである。大阪市立大学生活科学研究科と山本博工務店さんが協同で進めているプロジェクトである。
また、山本博工務店さんは、大阪、上新庄にオフィスを構える、無垢の木の家をシッカリトした大工さんの手によって作っていくスタイルの地域に根ざした工務店である。後でも述べるが、OMソーラーシステムという、太陽熱と空気の動きを利用した室内温度調整システムを導入している工務店でもある。
②OMソーラー、パッシブデザイン
次に、山本博工務店さんのオフィスにお邪魔して、OMソーラーなるシステムを紹介してもらった。
OMソーラーシステムとは、太陽の「熱」と「空気」を使って家を温めたり、お湯をつくったりするシステムで、太陽光発電とはまた異なる太陽光エネルギーの使い方である。
参考:http://omsolar.jp/omsolar/winter.html
OMソーラーシステムは太陽の熱をそのまま使う。今日のように晴れた日ではエアコンなしで24℃にまで室温を上げることができ、電気代などはかからない。
また夏でも、空気の流れを変えることである程度涼しくなるそうで。
価格は一概には言えないが200万前後だそう。
なかなかな価格だが、暖房や給湯でかかるエネルギーが大きく節約できると考えたら投資の価値はあると思う。家庭内の使用エネルギーは暖房、給湯が4割以上を占めるらしい(はっきりとした数字は覚えていない…)。
このようなシステムの根底にある「パッシブ」の考え方は、これからのあるべきライフスタイルの大きく寄与する考え方だと思ったので、紹介させてもらいたい。
以下抜粋(http://omsolar.jp/omsolar/passive.htmlより)
『パッシブとはアクティブ(能動的)の反対語で、「受動的」という意味です。
具体的に言うと、帆に風を受けて進むヨットや、空を飛ぶパラグライダー、夏の打ち水、干した布団に寝た時のぬくもりなど、これらはすべて、パッシブのあり方の一例です。一方、海でのモーターボート、空でのジェット機などは、機械の力に頼るアクティブなあり方の一例といえます。
こうしたパッシブなあり方に共通するのは、「熱や力を自然のまま利用し、しかも汚れを生まない」ことです。
こうした考え方をお話しすると、「パッシブは、技術の進化を否定して、昔の生活に戻れということ…?」と思われるかもしれませんが、そうではありません。パッシブは、自然とより深く関わることによって得られるものを大切にした方が、機械や化石燃料に頼るよりも心地いい暮らしができると考えます。
私たちが生きている世界は、それほど住みにくい環境ではないはずです。基本的に私たちはここに生まれてきた生物ですから、この世界と大きく矛盾しているはずはありません。
人工的な環境の「快適」さに慣れすぎると、外へ出た際に体の変調をきたす原因にもなります。人工環境が、人間が本来もつ耐寒・耐暑の適応能力を低下させるからです。
初めからアクティブな方法に頼り切るのではなく、まずはパッシブなやり方で自然の力を活かし、足りない分はアクティブで補う。それは、健康によく、かつ地球に負荷をかけない方法です』
そして、ココが大事だと思うことは、現在のアクティブなあり方のよさも認め、それも全然あっていいという、ごくごく自然な考え方。要はアクティブなあり方への依存度を下げることが重要なのだ。
『自然の力を活かすのはいいけれど、それだけでは足りないという見方があります。確かに、お天気や地域の気候に左右されることは避けられません。でも、太陽が顔を出さない時、それで足りない時には無理をせず、補助暖房や冷房装置を動かせばいいと考えます。
「せっかく家をつくるなら、まずは自然エネルギーを上手く使おう。それで足りない時は他で補おう。」という発想です。
人間には本来、体温を調節したり衣服を着たりと、環境に適応する能力や知恵が備わっています。 もともとある人間や自然の力を生かして、冬は冬らしく、夏は夏らしく過ごしながら、ちょうどいい状態をつくりだそうというのが、パッシブの発想であり、OMソーラーのやり方です。』
エネルギーや居住環境等、現代社会を支える多くのシステムは、自然の現象を細かく分割し、ある部分に特化(たとえば耐震性等を重視した鉄筋コンクリートの建物)したものが多くを占め、現代社会を支えてきたが、一方でその特化により多くの矛盾が顕在化してきてもいる(たとえばコンクリートで固められた都市部でのヒートアイランド現象など)。そこには多様かつ同時に存在する自然現象をうまく利用しようという姿勢ではなく、それらを極力排除し、単純化し、コントロール下に置こうという、ある種傲慢な姿勢とも解釈できる実態が存在する。そのような姿勢の限界は明らかであり、これからはより賢い自然現象とのうまい付き合い方が求められる。防災ではなく減災、コントロールではなくマネジメント。
自然現象には無駄なものが無い。そこから得られる知恵を大事にするライフスタイルは、持続可能な地域社会のあり方に直結すると思う。
①豊崎長屋、山本博工務店
豊崎長屋は、大阪市内に残る、大正時代の長屋4棟15戸に、耐震補強と住戸改修を施して再生したプロジェクト。戦災や震災を免れてきた長屋を、単に文化的価値から「保全する」だけではなく、さらに将来へと「受け継がれていく」ことを旨に計画を練ったものである。大阪市立大学生活科学研究科と山本博工務店さんが協同で進めているプロジェクトである。
また、山本博工務店さんは、大阪、上新庄にオフィスを構える、無垢の木の家をシッカリトした大工さんの手によって作っていくスタイルの地域に根ざした工務店である。後でも述べるが、OMソーラーシステムという、太陽熱と空気の動きを利用した室内温度調整システムを導入している工務店でもある。
天六には時々行くが、このような町並みが残っているのは初めて知った。
京都での町家と同じような感じではあるが、wikiによると、「長屋との違いは、長屋が集合住宅であるのに対し、町屋が独立住宅であること」だそう。
ここは大阪市立大学のサテライト研究施設と位置づけられており、卒業制作や修士制作にココの長屋のデザイン企画をやったりして、それが実際に試みられていたりするそうで、近頃話題のリノベーション活動の現場でもある。また、研究室の卒業生らが実際にそこでシェアハウスをしたりして実際に住み込んでいるというのも興味深い。
こういうところを見ていると、これからの住環境の価値観の変化を感じる。
つい10〜20年前まで、いや、今でも多くは、高層マンション、あるいはどこかで土地と一軒家をローンで買うことがスタンダードであるが、昨今シェアハウスや町家、古民家再生といった、住むという行為の価値観や、「古い」ものへの価値の評価が変化し、より多様になってきていると思う。少なくとも自分とその周辺にいる人たちの、この辺に興味のある人たちを観察していると、古いからイヤなのではなく、汚いからイヤなのである。つまり、今そこにある古いものを新しいものや既存のものと掛け合わせて、新鮮であり、また同時にどこか懐かしい感じのする空間を作っていくことに関心が高い。古さに価値を見いだし、足りないものを現代的なものとの組み合わせで補っていく。こういう活用のされ方は多くの若者の関心を引き立て、町並みの現代的保存が可能になっていくのだろうなと感じた。
②OMソーラー、パッシブデザイン
次に、山本博工務店さんのオフィスにお邪魔して、OMソーラーなるシステムを紹介してもらった。
OMソーラーシステムとは、太陽の「熱」と「空気」を使って家を温めたり、お湯をつくったりするシステムで、太陽光発電とはまた異なる太陽光エネルギーの使い方である。
参考:http://omsolar.jp/omsolar/winter.html
OMソーラーシステムは太陽の熱をそのまま使う。今日のように晴れた日ではエアコンなしで24℃にまで室温を上げることができ、電気代などはかからない。
また夏でも、空気の流れを変えることである程度涼しくなるそうで。
価格は一概には言えないが200万前後だそう。
なかなかな価格だが、暖房や給湯でかかるエネルギーが大きく節約できると考えたら投資の価値はあると思う。家庭内の使用エネルギーは暖房、給湯が4割以上を占めるらしい(はっきりとした数字は覚えていない…)。
このようなシステムの根底にある「パッシブ」の考え方は、これからのあるべきライフスタイルの大きく寄与する考え方だと思ったので、紹介させてもらいたい。
以下抜粋(http://omsolar.jp/omsolar/passive.htmlより)
『パッシブとはアクティブ(能動的)の反対語で、「受動的」という意味です。
具体的に言うと、帆に風を受けて進むヨットや、空を飛ぶパラグライダー、夏の打ち水、干した布団に寝た時のぬくもりなど、これらはすべて、パッシブのあり方の一例です。一方、海でのモーターボート、空でのジェット機などは、機械の力に頼るアクティブなあり方の一例といえます。
こうしたパッシブなあり方に共通するのは、「熱や力を自然のまま利用し、しかも汚れを生まない」ことです。
こうした考え方をお話しすると、「パッシブは、技術の進化を否定して、昔の生活に戻れということ…?」と思われるかもしれませんが、そうではありません。パッシブは、自然とより深く関わることによって得られるものを大切にした方が、機械や化石燃料に頼るよりも心地いい暮らしができると考えます。
私たちが生きている世界は、それほど住みにくい環境ではないはずです。基本的に私たちはここに生まれてきた生物ですから、この世界と大きく矛盾しているはずはありません。
人工的な環境の「快適」さに慣れすぎると、外へ出た際に体の変調をきたす原因にもなります。人工環境が、人間が本来もつ耐寒・耐暑の適応能力を低下させるからです。
初めからアクティブな方法に頼り切るのではなく、まずはパッシブなやり方で自然の力を活かし、足りない分はアクティブで補う。それは、健康によく、かつ地球に負荷をかけない方法です』
そして、ココが大事だと思うことは、現在のアクティブなあり方のよさも認め、それも全然あっていいという、ごくごく自然な考え方。要はアクティブなあり方への依存度を下げることが重要なのだ。
『自然の力を活かすのはいいけれど、それだけでは足りないという見方があります。確かに、お天気や地域の気候に左右されることは避けられません。でも、太陽が顔を出さない時、それで足りない時には無理をせず、補助暖房や冷房装置を動かせばいいと考えます。
「せっかく家をつくるなら、まずは自然エネルギーを上手く使おう。それで足りない時は他で補おう。」という発想です。
人間には本来、体温を調節したり衣服を着たりと、環境に適応する能力や知恵が備わっています。 もともとある人間や自然の力を生かして、冬は冬らしく、夏は夏らしく過ごしながら、ちょうどいい状態をつくりだそうというのが、パッシブの発想であり、OMソーラーのやり方です。』
エネルギーや居住環境等、現代社会を支える多くのシステムは、自然の現象を細かく分割し、ある部分に特化(たとえば耐震性等を重視した鉄筋コンクリートの建物)したものが多くを占め、現代社会を支えてきたが、一方でその特化により多くの矛盾が顕在化してきてもいる(たとえばコンクリートで固められた都市部でのヒートアイランド現象など)。そこには多様かつ同時に存在する自然現象をうまく利用しようという姿勢ではなく、それらを極力排除し、単純化し、コントロール下に置こうという、ある種傲慢な姿勢とも解釈できる実態が存在する。そのような姿勢の限界は明らかであり、これからはより賢い自然現象とのうまい付き合い方が求められる。防災ではなく減災、コントロールではなくマネジメント。
自然現象には無駄なものが無い。そこから得られる知恵を大事にするライフスタイルは、持続可能な地域社会のあり方に直結すると思う。
2012年3月9日金曜日
2012年3月4日日曜日
友人
大学の友人が京丹後で有機農業をやるそうです。
そこに至った経緯がここに記されています。
このブログを読んでくれる方々にもぜひシェアしたいです。
23歳の所信表明
3.11から1年が経とうとしています。
この1年で、彼は様々なことを調べ、考え、行動してきました。
丹後の皆さん、彼も一緒に未来を作っていく仲間です。
僕もいつかそちらに帰ります。
自分はまだ考えます。そのために休学という選択をしたのですから。
もっと深めないといけない。知らないといけない。
そして、決めなければいけない。
大阪に帰り、都市の生活を満喫している訳ですが、何をするにもお金が結構かかるのがやっぱり気になります。
その分お金を稼いでも、その分また消費が増えていきます。
モノもあります、人もたくさんいます。
それはお金を出せば買えます。素晴らしいシステムです。
また、本当に必要なものかどうか考えさせず、たくさんの人の欲をうまく引き出す仕組みがあります。
意図してか意図せずかわかりませんが、その背景が見えにくくなっています。
「考えだしたらきりがない」確かにそうです。
でも、知らないじゃすまされないことって、実は結構身近なところにたくさんあるんじゃないでしょうか。
知らないうちに途上国の資源や人の搾取に加担していたりする。
うーん、知ってたらだれでも避けたいことですよね。
「問題」として提起される以上、ネガティブなことも多くて、それを書くのははばかられますが、そういったことは意識して、それに合う行動をしていきたいですよね。
意識と行動は解決の一歩ですからね。
こうやって少しずつ価値観を綴っていったりしています。
個人的に素敵だなと思っている人がこんなことをつぶやいていました。
「本当に正しいことや未来のことなんて誰も知らないんだから、無知だからこそ気楽に、自分も他人も否定しないで、尊重できたらいいなと思う。」
「知る」ことから始めよう。人も、物事も。
こういう風に考えられるようになったのも、丹後で暮らしてきたからかな?
そこに至った経緯がここに記されています。
このブログを読んでくれる方々にもぜひシェアしたいです。
23歳の所信表明
3.11から1年が経とうとしています。
この1年で、彼は様々なことを調べ、考え、行動してきました。
丹後の皆さん、彼も一緒に未来を作っていく仲間です。
僕もいつかそちらに帰ります。
自分はまだ考えます。そのために休学という選択をしたのですから。
もっと深めないといけない。知らないといけない。
そして、決めなければいけない。
大阪に帰り、都市の生活を満喫している訳ですが、何をするにもお金が結構かかるのがやっぱり気になります。
その分お金を稼いでも、その分また消費が増えていきます。
モノもあります、人もたくさんいます。
それはお金を出せば買えます。素晴らしいシステムです。
また、本当に必要なものかどうか考えさせず、たくさんの人の欲をうまく引き出す仕組みがあります。
意図してか意図せずかわかりませんが、その背景が見えにくくなっています。
「考えだしたらきりがない」確かにそうです。
でも、知らないじゃすまされないことって、実は結構身近なところにたくさんあるんじゃないでしょうか。
知らないうちに途上国の資源や人の搾取に加担していたりする。
うーん、知ってたらだれでも避けたいことですよね。
「問題」として提起される以上、ネガティブなことも多くて、それを書くのははばかられますが、そういったことは意識して、それに合う行動をしていきたいですよね。
意識と行動は解決の一歩ですからね。
こうやって少しずつ価値観を綴っていったりしています。
個人的に素敵だなと思っている人がこんなことをつぶやいていました。
「本当に正しいことや未来のことなんて誰も知らないんだから、無知だからこそ気楽に、自分も他人も否定しないで、尊重できたらいいなと思う。」
「知る」ことから始めよう。人も、物事も。
こういう風に考えられるようになったのも、丹後で暮らしてきたからかな?
2012年2月29日水曜日
2012年2月22日水曜日
情報収集のやりかたについて
情報収集について、今まで、何となくでやっていたことをちょっとルールを決めてやっていかんと思った次第です。
【試行錯誤メモ】
実験的に、今日のスケジュールとして、
朝の電車:情報収集(Twitter, MobileRSS(日経ビジネスとかプレジデントオンラインとか))
日中:日常活動
夕食後(21時以降):集めた情報に一通り目を通す
という行程でやってみた。
朝の電車では、面白そうな記事やツイートをひたすらEvernoteにクリップしていく作業。内容はほとんど見ない。タイトルや章で判断。約1時間。
夕食後の作業でそれらに一通り目を通す。とりあえずじっくり吟味はしない。内容の要約等。約2時間かかった。
やってみた感覚としては、これは非効率だな、と思った。質と量のトレードオフ。
量は読めるが、それらをすべて咀嚼してる時間がない。ソースまでたどっていったらとてもじゃないが今の自分では処理できないだろう。質の確保ができない。情報の波に飲まれていく感じ。
触れる情報の数をもう少し限定すべきか。そのためには現在の興味関心を意識的に限定させ、それに絞った情報収集に特化する?
現在の知っておきたい興味関心とは何か?ざっくり、
①世の中全体の動き(まあ当然。大きな流れ)
②地域関係(農山村。地域経済の活性化、特に農林業を中心とした動き。住民自治)
③ビジネス(特にマーケティング?)
④環境(生態系、エネルギー)
これら全部に等しくエネルギーを投入してくなんてできませんわな。
メディアツールを使い分ける必要がどうもありそうだ。今のツールはtwitter、Facebook、新聞(朝日、日経)、RSS購読。①は主に新聞、②〜④はtwitter、Facebook、RSS購読でやる?
twitterもリスト分けして得られる情報を整理していった方が良さそう。
そして、「情報をシャットする」時間も間違いなく必要。曜日とかで区切って、氾濫する情報に触れない日を設ける。もちろん最低限新聞くらいには触れたりしたいところではある。新聞も拾い読み程度にするか。
ということで、情報収集する日を限定させることとして(どのくらいがいいんだろう?とりあえず週2〜3?)、その日は
朝食時(約30分):新聞拾い読み
電車(大学行かない日は1時間程度部屋で):曜日ごとに着目する収集情報を変えてみる
日中:やることやっとく
夜(2時間くらい):収集情報の整理、咀嚼
といった流れにしてみようかしら。
これから少しづつやり方を変えてみて、こうやってメモを残しながら自分なりのやり方を身につけられたらと思います。
朝の電車:情報収集(Twitter, MobileRSS(日経ビジネスとかプレジデントオンラインとか))
日中:日常活動
夕食後(21時以降):集めた情報に一通り目を通す
という行程でやってみた。
朝の電車では、面白そうな記事やツイートをひたすらEvernoteにクリップしていく作業。内容はほとんど見ない。タイトルや章で判断。約1時間。
夕食後の作業でそれらに一通り目を通す。とりあえずじっくり吟味はしない。内容の要約等。約2時間かかった。
やってみた感覚としては、これは非効率だな、と思った。質と量のトレードオフ。
量は読めるが、それらをすべて咀嚼してる時間がない。ソースまでたどっていったらとてもじゃないが今の自分では処理できないだろう。質の確保ができない。情報の波に飲まれていく感じ。
触れる情報の数をもう少し限定すべきか。そのためには現在の興味関心を意識的に限定させ、それに絞った情報収集に特化する?
現在の知っておきたい興味関心とは何か?ざっくり、
①世の中全体の動き(まあ当然。大きな流れ)
②地域関係(農山村。地域経済の活性化、特に農林業を中心とした動き。住民自治)
③ビジネス(特にマーケティング?)
④環境(生態系、エネルギー)
これら全部に等しくエネルギーを投入してくなんてできませんわな。
メディアツールを使い分ける必要がどうもありそうだ。今のツールはtwitter、Facebook、新聞(朝日、日経)、RSS購読。①は主に新聞、②〜④はtwitter、Facebook、RSS購読でやる?
twitterもリスト分けして得られる情報を整理していった方が良さそう。
そして、「情報をシャットする」時間も間違いなく必要。曜日とかで区切って、氾濫する情報に触れない日を設ける。もちろん最低限新聞くらいには触れたりしたいところではある。新聞も拾い読み程度にするか。
ということで、情報収集する日を限定させることとして(どのくらいがいいんだろう?とりあえず週2〜3?)、その日は
朝食時(約30分):新聞拾い読み
電車(大学行かない日は1時間程度部屋で):曜日ごとに着目する収集情報を変えてみる
日中:やることやっとく
夜(2時間くらい):収集情報の整理、咀嚼
といった流れにしてみようかしら。
これから少しづつやり方を変えてみて、こうやってメモを残しながら自分なりのやり方を身につけられたらと思います。
2012年2月5日日曜日
NHKスペシャル見て
5万4千haの、300万枚の棚田。
どうしてあれが持続しているのか。それは自然と人が作り上げたシステムだからだ。
いっさい無駄がない。
想像しただけでワクワクする。
世界にはそんな空間がある。そんな「絶景」がなぜ存在しているのか、そこに目がいくようになってきたのは、ちょっとした進歩だろうか。
そして最後の言葉「都会の人がこの棚田にきたら美しい場所に見えるだろう。でも私たちにとっては違う。この棚田は生きるための場所なんだよ。」に心を動かされる。
ここに帰ってきて、前までの暮らしに戻り、忘れそうになる。
自分はそういう暮らしを常吉ではしていないけれど、そういう地域に近いところにいて、そこに住む人の声を聞いた。同じようなことを言われた。そして「豊かになりすぎなんです」と。将来への選択肢が多いのも、豊かさの賜物。
自分は都市住民である。豊かである。それは全くもって悪いことではない。
ただ、毎日の消費していく生活の中で、自分は何を生産しているだろうか。
社会に出たら、すこしづつ恩返しですな。
今まで消費してきたものに。
どうしてあれが持続しているのか。それは自然と人が作り上げたシステムだからだ。
いっさい無駄がない。
想像しただけでワクワクする。
世界にはそんな空間がある。そんな「絶景」がなぜ存在しているのか、そこに目がいくようになってきたのは、ちょっとした進歩だろうか。
そして最後の言葉「都会の人がこの棚田にきたら美しい場所に見えるだろう。でも私たちにとっては違う。この棚田は生きるための場所なんだよ。」に心を動かされる。
ここに帰ってきて、前までの暮らしに戻り、忘れそうになる。
自分はそういう暮らしを常吉ではしていないけれど、そういう地域に近いところにいて、そこに住む人の声を聞いた。同じようなことを言われた。そして「豊かになりすぎなんです」と。将来への選択肢が多いのも、豊かさの賜物。
自分は都市住民である。豊かである。それは全くもって悪いことではない。
ただ、毎日の消費していく生活の中で、自分は何を生産しているだろうか。
社会に出たら、すこしづつ恩返しですな。
今まで消費してきたものに。
京都大学地球環境フォーラムに行ってきました。
ブログ継続表明をしてから初投稿です。
初投稿は働き隊として5ヶ月やって得たもんとかの記事にもしようかとも思ったのですが、もう少ししてから投稿できれば、と思います。いつになるやら。
今日は京都大学地球環境フォーラム『「幸福」の価値観と次世代環境人材育成』に行ってみました。まぁ最近よくいわれる「幸せって何だっけ」っていうやつです。
次世代環境人材育成の話は今日はどうでもよくて(頑張ってお話しして下さったのにごめんなさい)、今日は前半部の話が聴きたくて行きました。
前半部のパネラーは3人で、それぞれの立場から幸福の価値観について講演を聴いて、最後にパネルディスカッション、という流れでした。
講演者、タイトルは、
①知恩院で奉職中で「フリースタイルな僧侶たち」代表の池口龍法氏による「日本仏教に求められる社会的役割」
②京都大学こころの未来研究センター准教授の内山由紀子氏による「日本的幸福のあり方と幸福度指標」
③京都大学地球環境学堂教授の松下和夫氏による「GNHと持続可能な発展の政策統合:ブータンの事例から」
でした。
この中で印象深かったものをピックアップして、それについて少しばかり書いていこうと思います。①と②が印象的でした。
初投稿は働き隊として5ヶ月やって得たもんとかの記事にもしようかとも思ったのですが、もう少ししてから投稿できれば、と思います。いつになるやら。
今日は京都大学地球環境フォーラム『「幸福」の価値観と次世代環境人材育成』に行ってみました。まぁ最近よくいわれる「幸せって何だっけ」っていうやつです。
次世代環境人材育成の話は今日はどうでもよくて(頑張ってお話しして下さったのにごめんなさい)、今日は前半部の話が聴きたくて行きました。
前半部のパネラーは3人で、それぞれの立場から幸福の価値観について講演を聴いて、最後にパネルディスカッション、という流れでした。
講演者、タイトルは、
①知恩院で奉職中で「フリースタイルな僧侶たち」代表の池口龍法氏による「日本仏教に求められる社会的役割」
②京都大学こころの未来研究センター准教授の内山由紀子氏による「日本的幸福のあり方と幸福度指標」
③京都大学地球環境学堂教授の松下和夫氏による「GNHと持続可能な発展の政策統合:ブータンの事例から」
でした。
この中で印象深かったものをピックアップして、それについて少しばかり書いていこうと思います。①と②が印象的でした。
①まず、「フリースタイルな僧侶たち」の存在が興味深かった。この団体は、「若手僧侶やクリエイターがコラボし、仏教をわかりやすく伝えていくプロジェクト」だそうで(HP参照)、昨年興味を持ったけど行けなかった「お寺で宇宙学」といった企画もやっている。そういう風に、今は世俗の人たちが感じている敷居の高さを取っ払っていくための活動ってこれから重要になっていくと思います。
というのは、何もこれは仏教に限った話ではなく、自分の関心ごとに限っていえば、例えば今、田舎暮らしや第一次産業、自然環境保全などが見直され始めている世の中の流れからも、もともと関心のあった人たちが参加できるチャンスを広げるという意味でも、今までそういったことに関心のなかった人たちが新しいものの見方を得られたりするチャンスを提供できるという意味でも、きっかけを生み出す力があるからです。
そうした活動の中で、新しいコラボが生まれたりするポテンシャルって結構あるのかなと感じていて、たとえば最近知り合った人に、サイエンスをもっと身近に!といって活動を始めた人もいて、その人と話していて「何かコラボできるといいね」なんて話も出たりもしました。
さて、池口氏は今回お坊さんの立場から仏教を中心としたお話をして下さったのですが、その中で印象的だったのは、「幸福」の捉え方でした。彼はあえて「幸福」という言葉を使わず、「充足」という言葉を使っていました。その話の中で、ブータン前国王の提言が印象深かったので、引用させて頂きます。
―仏教国としては、経済発展が究極目的でないことは、経済基盤が必須であることと同様、自明のことである。仏教国の究極目的として掲げたもの、それがGNH「国民層幸福」である。しかし今考えると、「幸福(happiness)」というのは非常に主観的なもので、個人差がある。だからそれは、政府の方針とはなり得ない。私が意図したことは、むしろ「充足感(contentedness)」である。それは、ある目的に向かって努力する時、そしてそれが達成された時に、誰もが感じることである。この充足感を持てることが、人間に取って最も大切なことである。私が目標としていることは、ブータン国民一人一人が、ブータン人として生きることを誇りに思い、自分の人生に充足感を持つことである。(今枝由郎『ブータン仏教から見た日本仏教』NHKブックス, 2005, p. 181)—
ふむ、確かに、と思いました。最近は幸福という、極めて主観的で曖昧なことに付いてぼんやりもの思いにふけっている時間が増えていたのですが、幸福の必要条件として「充足感」というものがあり、それを追い求めていけばいいんだと、すっと腑に落ちたように感じました。充足感は幸福感に内包されるもので、イメージとして幸福感の9割くらいを占めていて、残り1割くらいは個人間で差のある多様な「幸福感」なのでは。
イメージ |
丹後でも、これからどうしようか分からないといった相談をさせてもらったとき、「好きなことをやったらええ」とはよく言われたものですが、その「好きなこと」って結局「充足感の得られること」であって、つまり「目的をもって努力できること」をやったらええ、ということなんだと。
言われてみれば当然なことなのですが、「好きなこと」と言っても何でもやっていい(できる)わけではないと思うし、じゃあ「好きなことって?」と改めて考えると、よく分からないもんなのかなとも思います。そんなとき、こういう風に言葉を解釈できて、少しすっきりした気分です。
②内山氏は社会心理学・文化心理学を専門とし、内閣府における「幸福度に関する研究会」の議論にも参加しておられる方です。
これまでの幸福感についての研究知見から、日本的幸福感や「日本版GNH」の現状についてお話がありました。
現在メディアでもよく言われているけれど、日本社会の閉塞感とった悲観的な話が出ている一方で、『「幸福」とはこうあるべきだ、という価値観が世界において一元化していないだろうか?実際、日本の幸福の中身とはどのようなものなのか?』というのが彼女の問題意識でありました。
講演では、日米比較から日本的幸福感が相対的に浮かび上がってくるもので、そこでは、北米では「良いことが更なる幸福を招く、上昇的幸福(ji et al., 2001)」であったり、「自己価値・自尊心(Uchida et al.,2008; Uchida & Kitayama, 2009)」「自由選択」が幸福感の主な要素であるのに対し、日本では「良いことと悪いことのバランスの重視」や「関係志向」「人並み志向・比較志向(Hitokoto et al., 2008)」が幸福感の要素である傾向があったそうです。
日本では個の幸福感に周囲との関係性が大きな影響を与えているようです。
この研究結果を受けて、「フーンそうなのか。これに合わせて幸福度指標を作れば良いのか」となるのは危険ですよね。この傾向では日本はダメになるな(注目したのは「人並み志向・比較志向」)と思いました。グローバリゼーションの進展によって世の中の変化のスピードはとてつもなく速くなっていく一方で、この傾向ではそこについていけなくなる可能性も否定できないです(人並み志向では変化のスピードは弱くなりますものね)。
このことから、「何をもって幸福と感じるのか」というところも時代によって変化していくもの、いや、変えざるを得なくなるのでは、とも感じました。
ただ、かといって欧米的幸福感が正しい訳ではないし、ここのギャップの調整は大変難しい問題ではあるなとも感じました。日本のように既にある程度開かれている(?)状態で、日本的な幸福を!とだけ突き進んでも置いていかれるだけでしょう。
もちろん、内閣府は「国際比較を視野に入れつつ、一方で日本的な幸福感を検討」をするとしましたし、内山氏も平均値の単純な比較の危険性を訴えてていました。
日本ならではの、信念のある、世界に誇れるGNHを作ってほしいものです。
田舎に信念のヒントがあるような。。
この日を通じて、「今のところは幸福、というよりも充足感が自分にとってしっくりきた」という点と「グローバルな世の中で意味のある、日本的信念のあるGNH」という点について少し考えれたと思います。
現在メディアでもよく言われているけれど、日本社会の閉塞感とった悲観的な話が出ている一方で、『「幸福」とはこうあるべきだ、という価値観が世界において一元化していないだろうか?実際、日本の幸福の中身とはどのようなものなのか?』というのが彼女の問題意識でありました。
講演では、日米比較から日本的幸福感が相対的に浮かび上がってくるもので、そこでは、北米では「良いことが更なる幸福を招く、上昇的幸福(ji et al., 2001)」であったり、「自己価値・自尊心(Uchida et al.,2008; Uchida & Kitayama, 2009)」「自由選択」が幸福感の主な要素であるのに対し、日本では「良いことと悪いことのバランスの重視」や「関係志向」「人並み志向・比較志向(Hitokoto et al., 2008)」が幸福感の要素である傾向があったそうです。
日本では個の幸福感に周囲との関係性が大きな影響を与えているようです。
この研究結果を受けて、「フーンそうなのか。これに合わせて幸福度指標を作れば良いのか」となるのは危険ですよね。この傾向では日本はダメになるな(注目したのは「人並み志向・比較志向」)と思いました。グローバリゼーションの進展によって世の中の変化のスピードはとてつもなく速くなっていく一方で、この傾向ではそこについていけなくなる可能性も否定できないです(人並み志向では変化のスピードは弱くなりますものね)。
このことから、「何をもって幸福と感じるのか」というところも時代によって変化していくもの、いや、変えざるを得なくなるのでは、とも感じました。
ただ、かといって欧米的幸福感が正しい訳ではないし、ここのギャップの調整は大変難しい問題ではあるなとも感じました。日本のように既にある程度開かれている(?)状態で、日本的な幸福を!とだけ突き進んでも置いていかれるだけでしょう。
もちろん、内閣府は「国際比較を視野に入れつつ、一方で日本的な幸福感を検討」をするとしましたし、内山氏も平均値の単純な比較の危険性を訴えてていました。
日本ならではの、信念のある、世界に誇れるGNHを作ってほしいものです。
田舎に信念のヒントがあるような。。
この日を通じて、「今のところは幸福、というよりも充足感が自分にとってしっくりきた」という点と「グローバルな世の中で意味のある、日本的信念のあるGNH」という点について少し考えれたと思います。
2012年1月28日土曜日
ご挨拶
1月23日をもちまして働き隊の研修が終了しました。
常吉の人たちや働き隊の人たち、そしてこの事業に関わってきた多くの人たちと出会えたことは大きな財産です。
都会だろうと、田舎だろうと、「暮らしやすさ」というものは人との繋がりであると思うようになりました。丹後という土地は5ヶ月間という短い期間でありながら、クリーンな部分もダーティな部分も含めて大変濃密な人間関係の中で活動をさせてもらいました。
そうしているうちに、丹後という土地には愛着を持ちましたし、これからも携わっていきたいと思います。実は、既に何ヶ月か先の飲み会に呼ばれたりもしました。笑
ポテンシャルの高い自然環境、そこに暮らす人々のコミュニティ、そうしたなかで生産される農林水産物。丹後には大きな可能性があると感じ、ここの未来を作っていけたらとも今は感じます。これからの人との出会いで自分がどう変化するのかは未知ですが、ここの縁脈を次につなげていきたいと思っています。
働き隊の期間中では関われなかった場所や人のところにも尋ねてみたいですし、期間中では見えなかったことも見えるようになりたいです。そのために、一度丹後を離れるこの機会がとても重要なフェーズになるのではないかと思います。
今、こうやって文章を書きながら、これからどうやって残りの休学期間を過ごそうかと考えを巡らせていましたが、この休学期間を含めて、残りの学生生活(ひょっとしたらその先しばらくも)は「丹後(を自分の出発点とした、日本や世界)の未来を作っていくための準備期間」に位置づけてみてもおもしろいなと思います。
ではどんな準備期間なのか。それを規定するためには、自分の生き方を決めなければなりませんね。まだまだじっくり時間をかけて考えていかなければならないことなのですが、やはりキーワードは「里山」「系への意識」「次の世代へ」をベースとした生き方だったりするのかなと。
これから世界がどうなっていくのかはじっと見極めて適切な行動をとっていかなければならない訳ですが、少なくとも今は時代の転換期でもあるとはぼんやりとでも感じますし、これからは人口、エネルギー、経済について自身はもっと知識を貯えていかなければならないと思います。それに気付けたのは丹後に来れたからかも、とも思います。どれだけ技術が発展しようとも、資源制約型の社会になることは間違いないとは思うので、その中で今の当たり前の暮らしができるのか、この恵まれた生活は本質的にどこから来たものなのか、この辺りは見当をつけておきたいと思います。
話は変わって、
当初、このブログは働き隊の研修期間限定でやろうと思ったのですが、ぼちぼちながら、丹後以外のことも、色々とアウトプットしていかないと自分も前には進めないのだろうなという思いがあります。
それは必ずしもブログというツールを使う必要はないのですが、せっかく作ったのに閉鎖してしまうのももったいないですし、bloggerのシンプルなインターフェイスも気に入りましたし、今まで読んでくれていた数少ない人たちにも「自分今こんなこと思ってます」「考え整理してみました」なんてSNSよりも長文投稿が気軽にできるのも少し気持ちが楽かな、なんて思ったりもして、このままぼちぼち続けていこうかなと思います。
ではでは、当初は5行くらいで終わらせようと思っていたのですがずるずるといっちゃいました。これからもよろしくお願いします。
常吉の人たちや働き隊の人たち、そしてこの事業に関わってきた多くの人たちと出会えたことは大きな財産です。
都会だろうと、田舎だろうと、「暮らしやすさ」というものは人との繋がりであると思うようになりました。丹後という土地は5ヶ月間という短い期間でありながら、クリーンな部分もダーティな部分も含めて大変濃密な人間関係の中で活動をさせてもらいました。
そうしているうちに、丹後という土地には愛着を持ちましたし、これからも携わっていきたいと思います。実は、既に何ヶ月か先の飲み会に呼ばれたりもしました。笑
ポテンシャルの高い自然環境、そこに暮らす人々のコミュニティ、そうしたなかで生産される農林水産物。丹後には大きな可能性があると感じ、ここの未来を作っていけたらとも今は感じます。これからの人との出会いで自分がどう変化するのかは未知ですが、ここの縁脈を次につなげていきたいと思っています。
働き隊の期間中では関われなかった場所や人のところにも尋ねてみたいですし、期間中では見えなかったことも見えるようになりたいです。そのために、一度丹後を離れるこの機会がとても重要なフェーズになるのではないかと思います。
今、こうやって文章を書きながら、これからどうやって残りの休学期間を過ごそうかと考えを巡らせていましたが、この休学期間を含めて、残りの学生生活(ひょっとしたらその先しばらくも)は「丹後(を自分の出発点とした、日本や世界)の未来を作っていくための準備期間」に位置づけてみてもおもしろいなと思います。
ではどんな準備期間なのか。それを規定するためには、自分の生き方を決めなければなりませんね。まだまだじっくり時間をかけて考えていかなければならないことなのですが、やはりキーワードは「里山」「系への意識」「次の世代へ」をベースとした生き方だったりするのかなと。
これから世界がどうなっていくのかはじっと見極めて適切な行動をとっていかなければならない訳ですが、少なくとも今は時代の転換期でもあるとはぼんやりとでも感じますし、これからは人口、エネルギー、経済について自身はもっと知識を貯えていかなければならないと思います。それに気付けたのは丹後に来れたからかも、とも思います。どれだけ技術が発展しようとも、資源制約型の社会になることは間違いないとは思うので、その中で今の当たり前の暮らしができるのか、この恵まれた生活は本質的にどこから来たものなのか、この辺りは見当をつけておきたいと思います。
話は変わって、
当初、このブログは働き隊の研修期間限定でやろうと思ったのですが、ぼちぼちながら、丹後以外のことも、色々とアウトプットしていかないと自分も前には進めないのだろうなという思いがあります。
それは必ずしもブログというツールを使う必要はないのですが、せっかく作ったのに閉鎖してしまうのももったいないですし、bloggerのシンプルなインターフェイスも気に入りましたし、今まで読んでくれていた数少ない人たちにも「自分今こんなこと思ってます」「考え整理してみました」なんてSNSよりも長文投稿が気軽にできるのも少し気持ちが楽かな、なんて思ったりもして、このままぼちぼち続けていこうかなと思います。
ではでは、当初は5行くらいで終わらせようと思っていたのですがずるずるといっちゃいました。これからもよろしくお願いします。
2012年1月4日水曜日
人づくりに始まり人づくりに終わる
今更ですが、五十河レポートアップ!!
【見学会内容】
小町の舎見学、民家苑での薪割り体験、民家清掃後かまどで炊いたごはんと猪肉を使ったみそ汁で昼食、午後は協議会代表の由利氏によるこれまでの地域づくりの軌跡のプレゼンテーションと、地域づくりの事例として「やねだん」のビデオ鑑賞、その後はマルシオ氏によるピザ焼きワークショップ、そして懇親会という流れだった。
その中で、特に印象深かった由利氏の地域づくりのお話について書いていこうと思う。
【由利氏のお話】
・「地域づくりは人づくりに始まり人づくりに終わる」
・「自分が楽しいと思える地域づくり」
この2点が長年地域づくりに尽力してきた由利氏の経験に裏打ちされた地域づくりの本質だった。優しい語り口の言葉には、それでいて重みがあった。
前者は地域活動全ての活動の原動力が人であり、若者の減少と高齢者数の増加は地域の持続可能性の危機である。どんなにワクワクするイアデアを出したところで、それを実行していくには人が必要である。自分自身も働き隊として常吉に入って4ヶ月が過ぎるが、「人」の存在は間違いなく様々な活動の原動力であり、現状は多くの地域活動のボトルネックになっていることを、常吉でも痛感している。「こんなことできたら面白いだろうな」と考えても、「じゃあそれは誰がやるんだ」というところでどうしてもその壁が大きく立ちはだかる。そして地域のしがらみといったこともその壁をより高くする。
一方、それを自分が実行していけばいいわけなのだが、自分の任期という現実と、そこに住みつく覚悟もない自分にできることは非常に限られてくる。「この地域のために自分ができることはなんだろう」と考えを巡らす日々。
後者に関して。字面からは、当たり前のようなことでもあるが、地方、そして限界集落のような場所においては(どこでもそう?)、その危機意識、課題の大きさから「○○しないといけない」といった義務感にかられることもあると思う。もちろん危機意識を持ってやることはそれは1つの活動のモチベーションではあるが、それは長続きしないと思うし、やっぱり「楽しいことは正しいこと」なのだろうなと思う。そして、「楽しいこと」が地域の人たちにとっての「楽しいこと」であった場合に地域づくりが1つできるのだろう。つまり、由利氏の二つの言葉は、それぞれ独立したものではなく、同時に進んでいくものなのだろう。地域づくりは、地域のための多様な活動をしてくれる人材を作っていくことであるが、そういう人材を作っていくためには、作る人が自分の背中で「楽しい」と語れるものであって初めて人が集まってくるのだろう。結局、自分がやって楽しいことと、地域のためになることがある程度シンクロする必要があるわけで、「やるべきこと」と「やりたいこと」のある程度の一致と、それが現実の中でどこまでできるのかというところが地域づくりの方向性を決めていくのだろう。
「やねだん」の鑑賞会を見て思ったのも、やはり「人づくり」という部分と「楽しいこと」の並行でできたのだろうなと思った。例えば、集落の空き家をキレイにしてアーティストの定住を呼びかけたものが記憶に残っている。「地域の活性化は文化の向上」(=やるべきこと)という思いと、集落の空き家に人を入れよう(=やるべきこと)という目的のもと行われた活動であるが、これも、アーティストという特別なスキルをもつ人を集落に「作った」ことであるし、その人たちのアート活動で集落の人を「笑顔にしたい」(=やりたいこと)がうまく地域のやるべきこと(文化向上+空き家解消)にシンクロしたものだった。また、楽しいことのために代表の人が率先して動いて、回りの人を巻き込んでいく(=人づくり?)やり方がとても上手な方人だな、と感じた。巻き込むこともまた「人づくり」なんだろうなと思った。
「楽しいこと=やりたいこと」と仮定すると、由利氏がおっしゃっていた、人が地域で活動する時に「リスクを共有する」という行為も、この二つの言葉の実現に必要なことなんだと思った。つまり、個人が地域で「楽しいこと」をやるときに、それが「やるべきこと」すなわち地域の課題解決とシンクロする部分があるのかどうかをしっかり共有することで、地域づくりに携わる「人を作る」ことができるようになるのだろう。
由利氏のお話は地域で活動するために(それは働き隊の任期中だけでなく、長期的な面でも)とても勉強になった。まだまだ学んだことは沢山あるけれど(特に懇親会のこと)、時間の都合上ここで勘弁してください。
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